« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月

2009年7月27日 (月)

「未納が増えると年金制度が崩壊する」は誤り?

 細野真宏の「未納・・・・・て誰が言った」という本の中で日経新聞大林尚が揶揄されているのは知っている。細野が参照しているのが権丈善一の考え方だということも同じく立ち読みで理解した。

 権丈には年金についての本というものはないので、詳しくはよくわからないが、現制度を批判する側(民主党や大林や西沢)を批判する論点を展開しているようだ。最近では上野千鶴子までその論理に感心して「社民党辻元」にチャチャを入れているようである。

 前に取り上げた「盛山和夫」にも同様の論点があったような気がするが、国民年金1号被保険者の未納問題には、権丈が展開した論理だけでは批判尽くせない問題が存在することを忘れるべきではない。つまり「国民年金は加入者の三分の一が払っていない制度でもはや崩壊している」という批判には権丈の批判は該当するし私も同じ立場だが、そのツケのほとんどは被用者年金保険制度から拠出金として持ち出されており、その三分の一(または2009からは二分の一)を負担する国庫負担を増加させていることとともに、年金財政を圧迫していることは明らかだからだ。(詳しく言えば拠出金の単価の計算に未納者が除外されているということ)

 だから一般人の常識である「入金額が減れば勘定は悪化する」という真理を信用するべきなのである。盛山や権丈や細野が「未納者には将来の給付がないこと」をもって年金財政に影響がないかのように言うのは、大林たちの「世代間格差の悪しき強調」と同じで、積立金方式の年金の論理を無原則に持ち込んでいるような気がする。つまり年金制度には今現在(正確には前後2年、計4年)しか関係ないということを議論参加者がまず理解すべきだ。そうであれば「未納が増えれば」現今の年金財政は悪化するわけであるから、年金財政のやりくりに悪影響を齎すのは当然で、それを強力に減らす努力が求められることに異論はでないはずだ。

 一方で西沢や大林たちがこの基礎年金拠出金の構造を理解した上で立論しているにも拘わらず、3号被保険者の問題を「世代間格差問題」の後景に追いやっていることに憤りを感ずる。というのは3号被保険者の人数は厚生年金や共済年金に加算されて拠出金が算出されているからである。もちろん国庫負担がいままででも三分の一ほどあったわけであるから、被用者年金加入者がすべてそれを負担していたというわけではないが、3号被保険者分は国庫が負担することを明確にすべきであったろう。例えば8割は国庫、2割は被用者年金としてもよい。そして被用者年金はその負担を3号被保険者を持つ配偶者に負担させるという考えを取るべきではなかったろうか?

 この問題は大林の主張するように基礎年金を全額消費税でまかなえば解決されるから、彼も取り上げていないのかも知れない。しかし86年からその時点まで根拠もなく負担させられてきた、被用者年金の単身加入者や共稼加入者はどう救われるのだろうか?大林に聞いてみたいところだ。(冗談)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月20日 (月)

JALの年金問題

 標題について朝日が取り上げている。企業年金受給者の三分の一以上が減額反対の意思を示して申し入れをした、とのことである。GMと同じようにJALも国からの資金援助を受けているという意味で過剰福祉に対して批判する根拠があると思っているのだろうか?しかし、公的資金が軒並み投入された銀行などの年金や過剰福祉についてマスコミが取り上げたという記憶がないので、これはむしろ取材される側の情報提供があるかないかというだけのことかとも言えるが、年金受給者の意識を見る上では参考にはなる。

 朝日の記事では月額40万の年金を受給していると書かれているが、これは正確ではないのではないか。一部退職金見合が含まれているとも書いてあるので、こちらの方は10年とか15年とかの期間限定のはずだからだ(一時払い年金保険とかわらないので終身保障にはなりえない)。金額にも限度があり限度いっぱいで月10万とかの言い方ができるはずだ。その他に終身の確定給付年金があり月10万、国の年金が月20万といったところだろう。

 会社が削ろうとするのは終身の確定給付企業年金である。既受給者の退職金見合の方は減らせないと思われる。ということは、最高に削れるとして月5万(半額)くらいではなかろうか?月10万の年金が減ると言うのであれば、現在月50万程度受給している可能性が逆に出てくる。(つまり40万というのはウソということ)

 会社側がどういう提案を退職者に出しているのかは知らないが、月50万の年金を40万にされて文句をいう人々への世論の支持はない。月40万が月35万になるのでも同様だ。彼らの中でもほとんどは受け入れるのではないか。

 しかし恐らくは裁判で争う人が必ずいるだろう。そのとき裁判所はJALの財務状況だけを基準に判断してはならないが、NTT年金訴訟のときのようにそう考えるバカな判事もいるから困ったものだ。

 要するに現在の社会状況から考えて、月30万、月40万の年金が正当かどうかを判断すべきなのだ。民間会社なら出せるならいくら出してもよいなどと言うのは間違いであり、公務員法も含め労働者を過剰に保護している法律は変えていかねばならない。また短期的な利益を配布するのとは違い、経営者にそこまで責任を問うことはできない。企業年金制度も長期的経営環境を考えて見直しをすべき時期にきている。

 このレベルの年金を受給していることがそれだけで罪であるわけではない。公務員の一部やNTTOBや昔からの大会社の退職者を含め2、300万人はいる感じがするが、一概に非難することはできない。当然だ。しかし、大本である企業が厳しい状況になれば、後輩の保険料や企業財務からの補てんだけでは立ち行かなくなることも当然あると考えるべきだろう。そういう意味で過去に約束された金額はすべて自分のものと考えるのは許されることではない。しかもその金額が世の常識から離脱しているときには当然である。今では大企業の従業員の中でも企業年金や退職金の恩恵にあずかれない人も多い。そのことも裁判の際には考慮されねばなるまい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月17日 (金)

年金世代間格差(第四考)

 日経の「年金を問う」によれば、厚労省が世代による負担と給付の関係を数字で示したのは90年代の終わりだった。その背景には「経済企画庁」の白書などでこの問題が取り上げられた関係から、一部の学者などが独自計算をはじめ、不正確な数字が一人歩きするのを避けたかったという事情があったようだ。厚労省はできるだけ世代間の対立をあおりたくなかったのだが、時代の流れで透明化せざるを得なかったようだ。後続世代が先行世代へ仕送りしているという理念だけでは世間は納得しなかったわけだが、日経陣はこのことをことさらに批判し、この理念を「道徳論」と一蹴している。つまり厚労省は「損得論」を否定しているが、リアリズムで見れば「そんな道徳論は許せない」と言っているのだ。

 しかしそれは「道徳論」だろうか?つまり先行世代の生活維持が後続世代の「お情け」に頼っているといえるのだろうか。もちろんそんなことはない。従って、厚労省がもし儒教倫理を持ち出して「親の世代への子の援助は麗しい」と言っているならいざ知らず、「年金制度は損得勘定だけでは立ち行かない」と言っていることを「道徳論」ということはできまい。

 西沢も日経も「損得勘定だけでない」ということを真剣に批判せず、「こんなに差があればやってられない」という「損得感情」だけを煽っている。

 公共のサービスは負担者が負担し受益者が享受している。年金も同じである。年金だけが格差があるわけではない。税金をほとんど払わない人もいるが、多額の負担をしている人と同等(以上)のサービスを享受している。「世代間格差」論者はそのことには目をつむっている。こういう不公平は構わないのだろうか?年金だけが負担と給付がはっきりしているというのは本当だろうか?

 もしそうなら最初に「第三号被保険者」の問題が取り上げられるべきだろう。なぜならこんなに明らかな不公平は他にはないのが明確だからだ。西村も日経もこれをとりあげていないことはないが、「比較的小さな問題」ということにしてしまっている。

 私はこの問題が重大だとは思うのだが、それでも、「これが解決しなければ夜も日も明けない」とは思わない。年金問題には問題が錯綜しており、妙な力点を強調すると余計に混乱してしまうということがあるからだ。

 そういう意味で私は彼らを批判している。

 具体論で言えば、西沢も日経も給付と負担の倍率計算に「会社負担」を無理に入れようとしている。しかし、これほど一般感情と離反したことはない。「経済学的に言えば」とか何とか理屈を述べているが自分の主張を際立させる手練手管以外の何者でもないだろう。積立金方式のようにそれを運用してそのまま受給するのであれば、そういう風にも(会計的に)考えられないことはないが、そうではないのだから、都合のいい時だけ積立金方式の理論を援用している、としか言えまい。

 もう一つ彼らの批判で明瞭になっていないのは、40年生まれでは60歳時から満額給付になっていて60年生まれでは65歳からでしかないということである。5年間で1千万程の受給額の違いがある。確かにこれは不公平である。しかし社会情勢の動向を見ながら制度を変更してきたことには合意ができていたはずである。それを今に至ってどうこう批判するのはどうなのであろう。格差の大部分がこの制度変更であるが、彼らはそのことを余り強調していない。なぜならこの問題の解決は最早不可能ということが自明だからだ。それにもかかわらず格差論を続ける意図は何なのだ。

 今後場合によっては70歳からの年金受給ということもありうるだろう。しかし、こうした格差論を前面に掲げる輩がいれば当然妙な世論が起こると思われる。その意味でもこのような立論の罪は大きいのだ。要は年金制度を維持するにはどうしたらいいのかということだけを考えるべきで、「感情論」にこだわるのは「愚の骨頂」である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 6日 (月)

年金世代間格差(第三考)

 日経新聞が2004年に出した「年金を問う」。この本にも、西沢や大林の考え方が横溢している。私は彼らの考え方のすべてを否定しているわけではないが、彼らの立論方法に正当性は見いだせない。

 厚生年金の年金額は73年の改正で大幅に上がったが、85年の改正でそれを減額するようにしてきた。彼らは前者を「大盤振る舞い」として批判しているが、西沢がその時点での「人口推移予測」や「平均余命の伸び」を天災と同じように予測は難しかったとしているのにたいして、日経陣はそうした留保もなく批判しているという違いはあるものの、これが大きな世代間格差を生んだ、という論調に変わりはない。よく考えるとこれも変と言えば変だ。

 過去の政策の過ちを批判したとしても、年金のように「利害関係者」が多い場合には自分の意図を実現するのは至難である。本当は彼らとて「納得性のある」落とし所を求めているのだろうが、その戦略が「世代間の不公平を是正することが最重要」であるかのようになっているわけで、こんなおかしなことはない。

 彼らは、どのような経済変動があろうが公平な「成果」が必要であり、それができなければ年金は不信の固まりになって存続できなくなってしまう、と言っているのだ。単純化して言えば、「確定拠出年金」で加入していた時代によって成果が異なるにもかかわらず、公平なものを払えと言っているのと同じだ。その理由が「確定拠出年金」には本人の責任があるが、「年金」は無理やり加入させられるから、というわけである。

 このように考えてしまうのは、彼らが「コストパフォーマンスが人生のすべて」と考えているからである。ちょっと考えればこんなおかしなことはないのはすぐわかる。彼らにもわかっているはずだ。ところが、自分の立論をやめることができないのだ。

 30年生まれの人たちが戦争を生き抜いてのち、貧乏な戦後を15年間過ごしたのちやっと高度成長の恩恵を受けた人生と等価の人生など後続世代のどこにあるというのだろう。年金は過去の人生そのものであり、他人がとやかくいうものではない。収受している金額に特段の意味などないのだ。ただ現在の社会情勢に鑑みて正当なものであるかどうかだけが問題なのだ。多くの人の感覚ではそのようになっていると思う。

 実際問題、「世代間格差」などは西村や大林の頭の中にしかないのだ。彼らは60年前後に生まれた世代だろうが、彼らの親は30年頃に生まれており、多額の年金を享受してきた。その恩恵は彼らや彼らの子供に及んでおり、このようなことを考えてみても、彼らの主張が愚かなものであることが一目瞭然である。「世代間格差」の是正という考え方がなければ、正当な年金額に近ずけない、というのはおかしな考えなのだ。

 私の主張は年金世代の上位三分の一の年金を実質的に減らすため、所得税を増税(年金等控除の減額)するとともに遺族年金にも課税するというのが一つの柱である。もう一つの柱が消費税を導入して年金世代全体の実質の年金額を減らすことである。但し、これは大幅なことはできないので極力小幅にしなければならない。そのため、税金で保障(負担)するのは20歳台の10年間だけとする、というものである。そうすることによって、現在の年金状況で渦巻く「不信」の多くを取り除けることができると思う。西沢や大林の「世代間格差」など唯の「宗教的思い込み」に過ぎないのだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 1日 (水)

西沢和彦「年金大改革」2003

 日経新聞の大林尚がさかんに言い立てる「年金世代間格差」。この愚かな主張に根拠を与えているのが、この本だということを知った。西沢は現在の年金制度に影響力のある人(諮問委員)で「年金は誰のものか」2008.04という本も書いているが、2004年改革の前に拙速で書いた標題の本には粗雑な論点が目立っている。

 その一つが「世代間格差」だ。それを緩和するため2005年頃以降の新規裁定者から老齢厚生年金を3割減としろと言っている。一方で既裁定者はそのままでいいなどという無茶苦茶なことを主張しているが、まさかこれが実現するとは思っていたとは思われない。ただ言わなければ気持ちが済まなかったというだけのことであろう。

 西沢の根拠とするのは「これだけ負担額に差があると年金を支える気持ちがわかない」という薄弱なものだけである。しかし、そのように考えるのは、西沢や大林らほんの一部の(目覚めた)人間だけではなかろうか?自分たちは後続の世代のためにやっているかのように言っているが、ホンネを言えば団塊世代に意趣返ししたかっただけなのではなかろうか?

 年寄りの世代も若い世代も「自分が払った保険料」が、年金になった時額が減ったりすればイヤなのは当然だ。しかし少しでも増えていれば余り文句はないというのが普通だと思う。(それ以外に考えようがないハズだ)同年の人たちとの比較は気になるが他世代との比較に気を回すようなことは余りないだろう。要するに自分がいくら払いいくら貰うかがすべてで、先行世代の年金が自分たちより多額というならいざ知らず、ほぼ同額をもらっているときに過去に払った金額など誰が気にするというのだ。

 要は年金が潰れずにあれば自分が得するということを知り保険料を払うことができる時には、人は保険料を払うことに(多少の文句はあるが)大きな不満はないのである。従って、そんな「頭のいいことをほめられるためにだけ考えた理屈」は捨て去って、まっとうな議論だけをしてもらいたいものだ。

 そのためには「根本的に年金は永遠に続かざるえないこと」を議論参加者がベースとして認めることである。 民主党の山井などが年金不安を煽るために手練手管で繰り出す議論などは即座に否定しなければならないし、世代間格差などの末節の議論を恰も最重大事であるかのような言い様は決してすべきでないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »